鹿の解体実験について

先日鹿の解体実験に行ってきましたよ。

主旨は石器で鹿を解体して、実際に石器でどのくらい解体できるのか、また
解体の際石器にはどのような使用痕が残るのかを見ること。
解体する鹿を得ることからはじまる。

かなり長文。





場所は千葉半島の南端を少し東に行ったあたり。めちゃくちゃ遠いねん。
朝八時に集合という無謀なスケジュールを強要されたため、一緒に実験に参加する友達2人と先輩で木更津でレンタカーをかりて前日から現地入り。
途中、友達と俺のナビゲーションミスにより、細くて行き止まりの道に先輩を誘導してしまし
車にしこたま傷がつく。先輩ときまずい空気が流れる中宿舎(実験を主催する人の別宅)へ。
おもいっきり風邪をひいていたのでその日はすぐ寝た。

翌日、朝6時くらいに起床。いよいよ鹿狩りの開始。
とはいえ、もちろん素人の自分たちにかれるものでもないので、地元の害獣駆除の猟師さんたちに狩ってもらうことになる。7時くらいにその人たちと合流。
出会いがしら、猟師さんたちの内一人がなにやら右手にぶらさげていた。

猿だ。

猿も害獣として扱われるらしく、猟師さんが散弾銃でしとめたらしい。
少し触らせてもらったが、体は死を理解するになんの苦労もないくらい冷たかった。
手が、足が、人間に似ている。顔もやはり近い。手には指紋さえある。
右手をつかんで持ってみた。冷たい。もう生きていないんだ。意外に重い。

近くの沢に行ってサルも解体することになった。解体をする人(考古学者。典型的な上に弱く
下に強い人いやな人)が猿のみぞおちにナイフを突き刺す。後で聞いたのだが、
解体をする際にはまずみぞおちにナイフを入れて、そこから腹膜の辺りまで切開する。
腹膜にあたったところでナイフをとめ、指をつっこんで皮と腹膜とを分離しなければいけない。
これをせずに不用意に腹を開いてしまうと内臓に傷がつき、中身がでて肉が臭くなってしまうのだ。
目の前で猿はあっさりと解体されてしまった。一応友達の手前もありなんでもない顔をしていたが、初めて見た解体はやはり残酷に見えた。初めて、内臓が体から飛び出るところを見たが、
内臓の構造はかなり人間に近い。体はすでに死後硬直で硬くなっている猿の体から内臓がゆらゆら水に漂っていた。やがて皮と肉がはがされる。手で、びりびり皮をはがす。
意外と簡単にはがれていく。

人間もあんなもんなんだろうか。やっぱりそんな観念から抜けられない。
初めてみる解体が猿だったのは失敗だったのかもしれない。

その後、猟師さんは計7頭の鹿と一頭の猪(150kgもある大物。)を獲物として得た。
鹿や猪はとどめをさした時点で自分たちに連絡が入り、山奥にはいっていって獲物を運び出す。かなりの急斜面を棒に鹿の死体をくくりつけて、二人で前後に一人ずつついて担ぐのだが、かなり重い。果たして昔の人たちはどの距離まで獲物を追っていっていたのか?

定住生活をしないのであれば獲物を追って移動していけばいいけれども、定住生活に入った人々はそうもいかない。
選択肢としては

①獲物を担いで往復できる距離までしか行かない
②遠くに行くが、狩りをしたその場で獲物を解体して、ほしい部位だけ持ち帰る。
③小物を狙い、その分だけ遠くに行く。
④丸一日以上の時間をかけて大きな獲物を持ち帰る

などが想定できるのだろうか。実際猟師さんに聞くとやはり解体するらしい。
とはいえ、それが古代の人たちにそのまま適応できるかというと、昔と今とでは獲物の
生活における価値がちがうだろうから簡単には言えない。
いずれ、検討の余地がある。

さて、長くなりすぎても微妙なので、今回の実験で得たことを書こう。

一つ、今回の主旨である石器での解体について。
石器で十分にできる。しかも、丁寧に調整した石器ではなく、ただ打ちかいただけで出来る
剥片で可能だ。石材はガラス質の黒曜石でやったので、切れ味は抜群だが、他の石器でも
そう困らないだろう。
ただし、石器は油がつくとすぐに切れ味が落ちるので、刃部再生という、鈍った刃の部分をさらに剥離して鋭利にする作業や、油を獣の毛になでつけて落とす作業を繰り返しても、石器一つで鹿や猪を解体することは困難といえるだろう。
また、切れ味がかなりするどい黒曜石をもってしても、猪のように脂肪の分厚い獣の皮と脂肪を切り離すことは不可能だ。脂肪をきるとすぐに油がつくためすぐに石器はだめになる。
これは、現代のナイフをもってしてもかなりの労働だった。
よって、こうした脂肪の分厚い動物に対しては、皮を脂肪と切り離すことなく、毛だけを処理して
茹でたり焼くなどの処理を施して食していた可能性も考えられる。

二つ。解体について。
「死」は予想以上に重い。目の前で動物の目の色がどんどん失われていく様、血抜きように
あけた首の穴から血が水へと流れていくさま、温かさを失っていく獣の外部、内部。
虫や魚とはやはり違う。構造的に自分に近いものの死。
猿をみたときにはかなり衝撃的だった。すぐ自分に還元してみる。
死ねば、ああなるんだなと。目の色が濁り、体はぬくもりを失い、時間が経てば固くなるだろう。
試みに解体をしてみれば、内臓からは生きていた少し前に食べたものやらなにやらが出てきて、臭いにおいを放つだろう。とうぜん、糞便もながれでてくる。皮と脂肪も、手ではがせてしまう。そんなもの。
当たり前に勉強してしっていたことは、体験になるとあまりにも生生しい。

考古学では古代の人々の心性、とくに祭祀などには目を向けがたい。
ただ、一個人としての実感をいうならば、狩りをしたあとに、獲物に対して
祭祀を行うことはおそらくどの狩猟社会においてもあっただろう。
自分と同じ人間の死を悼み、埋葬せずにおけなくなってしまった人間にとって
獲物であるはずの動物の死も、自らが殺し解体した結果であっても痛い。
その場で捨てていくことはあっても、後々でなんらかの祭祀をしなければ
「自分が救われない」後ろめたさを自分は強く感じた。
これが今回一番の収穫だった。

一週間ほど前のことだったが、その日に感じたことを全て口にすることは難しい。
そこで、一枚写真を。

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不快だろうか?かなりおとなしいめのものを選んだのだけれども。
この写真を載せたのは、単に自分が救われるためなので、不快におもった人は申し訳ない。
この記事を書いたのも、自分が解体した動物に対する感謝を述べるためだ。
君らの命をもらって自分はこれだけのものは得られました。
ありがとう。ごめん。
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by past-digger | 2005-11-07 21:52 | アーケオロジー


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